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日記 2025/01/31

天気:晴れ メンタル:悪くない 「私たちの芸術の旅路は、まわりに十分与えられるだけの力を自分がすでにもっているのだと納得し、それがなんなのか突きとめ、それを洗練させていくプロセスだと考えられる」(『ソーンダーズ先生の小説教室』p.227、フィルムアート社) 自分なんかが小説なんて書けるわけがないとつくづく思っている。書き始めてもうまくいかない。書き進められない。でも、それはインプットが不足しているからではない。アウトプットが下手なだけだ。肝心なのは「まわりに十分与えられるだけの力を自分がすでにもっている」ことに気がつくことだ。私はすでにもっているのだ。というか、すでにもっているもので書き始めるほかないのだ。これだけあれば、書けるという力の基準はない。あったとしても、その力を養うためには読むだけでなく、同時に書かなくてはならない。書くことでしか、書くことは上達しないだろうからだ。なにより、書けば書いた分の成果物は残るわけだし。でも、苦しいものは苦しいです…。 映画『テネット』でニールがリュックにつけていたストラップを再現したくて、Youtubeの動画を参考に自作した。ホームセンターで丸ワッシャー(穴の広めの5円玉みたいなもの。ステンレス製)と紐を買ってきて、穴に紐を通して、リュックサックに結びつけたら完成。いい感じのお守りだ。自作したという思い出込みなのでいい魔除けになりそうだ。総製作費は180円くらいなのでニールが好きな人はおすすめです。

日記 2025/01/30

天気:晴れ メンタル:すこし回復 引き続きTODOリストでやることを管理してるが、TODOリストがないのも困ってしまうが、旧来の作り方だとストレスを抱えてしまっていた。そこで、TODOリストのノルマの達成ラインを変更することにした。本だったら最低1ページ(1ページ読んだらその日はもう読まない、もちろん読んでもいい)、アニメなら1話、映画なら30分など、低めに設定することでTODOリストが達成できないストレスをなくした。これで気持ちがいくらか楽になったので、明日もこの感じでやっていきたい。日々、実験なのだ。文章は、理想の自分はもっと書けたらいいと思っている。1日3~4時間くらい文章に費やせたらいいが、実際は体調が悪かったりしてコンスタントにはできないので、今日とかもこの日記を書けたらもう文章はヨシとしたい。

日記 2025/01/28

天気:晴れ メンタル:ガタ落ち 昨日までの穏やかな春風のような好調さが嘘のように、体調が悪かった。雪解けによって沼ができ、それにはまってしまったかのようだ。朝8時に起きたとき、鬱が発動してしまい、起きてどうするんだという無意味さを感じてしまい、体を起き上がらせられなかった。12時になんとか起きたが、一日ずっと眠かった。こういう原因のはっきりわからない鬱への転落はなんとも悩ましい。解決のしようがないので落ち着くのを待つしかない。 TODOリストを作成して一日にやることを決めて、こなしていくようにすると何をするか悩んで時間を無駄にすることがなくていいのだが、ギチギチにやることを固めすぎると、労働している感じが出てきて、時間と効果、得られた結果、採算を考えてしまってきつくなる。なので、量に関しては最低限これだけ、と下限を設けることでそれを達成したらオーケーということにしたい。 あと、スマホからアプリを山ほど削除した。スマホを中毒の対象から道具に引きずり下ろす。なるべく使わないで済むように過ごしたい。SNSはPCから見ればよく、わざわざ電車の中で見る必要もないわけだし。 SNSもほどほどにしたい。目がつかれてしまうため。それに、SNSを見終えたあとって、SNSで見た投稿のことを何一つ覚えていないことのほうが多く、単純に時間の消費をしただけという結果だけがあるのだった。SNSで情報においていかれる感覚をFOMOというそうだ。フィアー・オブ・ミッシング・アウト。まやかしなので気にしないことだ。自分にとって本当に重要なことはまたどこかで必ず出会うさ、という気持ちで前向きに無視していきたい。 本を読め。本を。 そういえば、『地雷グリコ』めっちゃおもしろかった。すごすぎる小説だ。

日記 2025/01/26

天気:晴れ メンタル:どこか他人事 鬱ってほどじゃないのだが、ちょっとぼーっとしている。どこか他人事って感じで。大変だ。時間が過ぎていくぞ。でも、やる気がないわけではない。むしろ、いろいろなことがやりたすぎて、どれから手を付ければいいのかわからない。TODOリストをこなしていくことはできるのでいい感じではある。しかし、自分の中には「まだまだできる、もっとできる」という欲張りな感覚があり、実際、時間も持て余しているので、何かをしないともったいないのだった。とはいえ、今の時期は脳を休息させている身なのだと考えると、こういうだらっとした時間の過ごし方もそれはそれでいいだろうと思う。 受験生時代のとき5教科7科目をうまく勉強していくのが、当時本当に苦手だった。それを克服しないまま大人になってしまったツケを今払わされているかのようだ。とても苦しい。締め切りに追われているわけでもないのに焦りがやめられない。焦燥感が常に気持ちのそばにあり、ゴールドタイガーよろしく、私のことをずっと見ている。うまくいくときは、そのゴールドタイガーもどきに布を覆いかぶせて視界を遮り、自分自身に集中できる。没頭できるのだが、うまくいかない日もあるのだった。そうなると、とても気が散ってしまう。何をしても、別のことが気になってしまう。別のことを始めると、元にやっていたことが気になる。もっとやればよかったと思うのだ。それで、やったりやらなかったり繰り返していると、第三のやりたいことが浮上してきたりして、ついにすることを選べなくなって思考が停止する。そういうときは気持ちを切り替えるためにコーヒーを飲んだりする。自分のことではあるが、やはりどこか他人事のように自分を眺める。テレビのニュースがなにかの事件を伝えるのを見るときのように、「ああ、なんてことだ。大変だ…」と思ったりする。客観視できることは大事だが、コーヒーを飲んで落ち着いている間にも時間は過ぎていくし、一日は終わっていく。まあ、コーヒーを飲むくらいしかできないときもあるのだ。解決を、時間が過ぎていくのに委ねるしかないときもある。 最近、ようやく、本当にようやく、元の職場のくそったれ上司が夢に出てこなくなり、すっかり忘れてしまっている時間が増えてきている。今までは暇があると、ふと思い出しては怒りと憎しみが湧いてしまい、心が燃えていたが、今はあまりそうした...

日記 2025/01/25

天気:晴れ メンタル:あくびがち 月曜によく眠れず、火曜の日中が眠いけど眠れなくてとても疲れた。体調も悪かった。ここ最近は9-12時間くらい一晩に眠っていて、むしろこれくらい眠らないと翌日を体調良く過ごせないのだった。体調の最低条件。困っちゃうよね。タハー。 青崎有吾『地雷グリコ』を読み始めた。頭脳戦の駆け引きがめっちゃおもしろい。あと、青崎作品のキャラ造形はいつもうまいと感じる。天才を書くのがうまい。 『マルホランド・ドライブ』を観た。シークエンスの繋がり方が夢の辻褄という感じだった。 『ジョジョの奇妙な冒険』シーズン2「スターダストクルセイダース」を観始めた。読んだことはあるがぜんぜん覚えていなかったので、新鮮だ。ジョセフの念写が能力として地味だったけど、老いたとはいえ、スタンドに頼らずとも波紋が使えるなら強いよね。 機動戦士Gundam GQuuuuuuXをまた観たい。マチュがすごいよね。とても引き込まれる。あと、午前中に映画を見るとその日、一日うまくいく感じがする。朝映画はとても気持ちがいい。

日記 2025/01/20

天気:晴れ メンタル:アポリア 短編を一つ書いてボツにした。途中、書きあぐねたときに自分の気持ちを掘り下げるように参照したら、鬱の精神が出てきて主人公も鬱になってしまって生きる希望を諦めかけてしまったからだ。このままだと勝手に死にかねないと思ったので、ドクターストップをかけた。小説の創作指南書やインタビューなんかでキャラが勝手に動き始めるという趣旨のことを小説家が言うことがあるけど、逆にコントロールできてしまうのはまずいのだ。勝手に動き始めるというより、書き手の手綱を離れ、アンコントローラブルになってしまうということなのだと思う。 小説を書く自分がカメラだとすると、現実世界をカメラで撮ったとして、現像された写真=小説は、あくまでナチュラルな説得力があるべきだ。ブランコを撮ったら、写真はブランコを元にしたものかその変奏であるはずで、ブランコは写っておらずメガネが写っていたら意味がわかんない。でも、小説を書く自分のわがままが書いている小説に介入すると、往々にして、ブランコを撮ったのに、メガネやら水たまりやらセーターやら全くべつのものが写ってしまう。場合によっては、何を撮っても現像されたものがメガネばかりということになりうるのだ(私の場合、何を書いても主人公が結局最後に鬱になって生きるのを諦めてしまう)。それは説得力に欠ける。

日記 2025/01/19

天気:晴れ メンタル:地獄でなぜ悪い 文章を書いた。書き始めた。トータルで3時間くらい書いていた。細切れに。まあ、ぬるっと書き始めただけで、物語世界を構築させられているわけではない。やりたいことができないのは困っちゃうよね。タハー。 文章を書いていたのは、特に他に何もしたいことがないからだった。小説を読むのも、映画を観るのも、ゲームも外出も今はちょっといいや、となった結果、一番やって後悔しなさそうなことが文章を書くことだったので、とにかく書いていた。書くということにモチベーションがあるってほどでもないが、していて一番正しいことをしている気がする。本当に一番は、働けていたほうがいいのだが、働くことを考えると落ち込んでくるので、あまり考えないようにしている。働きたくないよ。私は社員というものに全くもって向いていない。なので、やはり書くということが一番しっくりくる正しいことって感じなのだった。書いていると、いろいろ思いつく。思っていなかったことまで急に思いつく。それはまあ楽しい。ちょっと楽しい。つらくはない。誰に怒鳴られるわけでもないし。迷惑もかけないし。書いているものは、このブログを除いて誰にも見せないので責任もない。 本当はもっと書くということが深堀りされていって、物語が書けるといいんだけど、うまく展開していかない。ふわっと「こんなキャラ」みたいなのは思う。でも、それだけ。もっと具体的に書いていく必要がある。あるシチュエーションに対して、そのキャラがどういう振る舞いをするのかが書ければいいのかなと思うが、現状はなかなかうまく進められていない。 ノートにカクノで書いている。手書きのいいところは、いろいろな漢字の書き方が覚えられること。雰囲気で覚えていた漢字。読めるけど書けない漢字を書けるようになる。たとえば、牽制。あと、手元に国語辞典を置いて、いちいち意味を確認するようにしている。今日知ったのは、破天荒。ただ大胆で豪快な性格を表すというときに用いるのは厳密には誤用らしいです。 人と話したい。退職して、元来友達もいないから、本当に話さない。実家にいるので親とだけ。でも、親とジョジョの話をしないし、GQuuuuuuXの話もしない。もっと関係のない人と話したい。だらだら話したい。話さないのがきついってほどではないけど、これが寂しいって感情なのか…としみじみ感じている。Blue...

日記 2025/01/18

天気:晴れ メンタル:メメタァ ジョジョの奇妙な冒険のアニメを観たので、ついでに漫画も1巻から読み直している。アニメはいくつかの点でブラッシュアップされてわかりやすくなっている。あと、ひったくり犯の子どものポコは、S・B・Rのポコロコの元だし、ツェペリ男爵の「戦い思考その①」とかは、ジャイロの「LESSON2…」へと受け継がれているなど気づくことも多く、毎ページ音読して歓声を上げながら楽しく読んだ。 昨日、ガンダムGQuuuuuuXの映画先行版を観てきた。とてもよかったし、90分くらいのボリュームとは思えなかった。まるで映画を二本観たかのようだった。とても満足。あと、あんなに大胆なストーリーでもちゃんとおもしろく、ストーリーの作り方としてこんなふうもありなんだ、と思って自分の創作意欲も湧いた。書け、とガンダムが言っている。帰り道、新しいマウスパッドと、ジョージ・ソーンダーズの『十二月の十日』を買って帰った。 『ソーンダーズ先生の小説教室』を読み終えた。読み終えた今、とても心が軽い。なんでも書けそうな気がする。これはいい言葉だ、と思った箇所をいくつもノートに抜き書きした。ロシア短編小説の入門書としても読めるし、創作指南書としても読める、二度おいしい良本だった。

日記 2025/01/16

天気:曇り メンタル:戦闘潮流 ジョジョの奇妙な冒険のアニメを第二部まで観た。最近ちょっとずつ観ていた。昔、原作を読んだことはあったがなんにも覚えていなかったので、展開が読めず、おもしろかった。第七部のS・B・Rで出てくるゾンビ馬という単語の元ネタは、もしかして戦車戦の吸血馬だろうかと思ったりしたが関係なさそうだ。 明日はガンダムの映画を観に行く。エンタメのライブ感を味わいたいため。内容はおもしろかったらいいけど、おもしろくなくとも文章のネタにはなるだろう。どこがだめだったかとか。でも、黒沢ともよさんが主人公をやるので期待している。

日記 2025/1/15

天気:晴れ メンタル:ロシア短編小説 昨日と今日でトルストイの短編「主人と下男」を読んだ。解説も読んだ。結末はおもしろくはあるが問題はそこではない。私としては道に迷っているさなかが一番おもしろかった。話としては、クズ野郎がクズのまま、人を救う話だった。わかりやすくまとめると、『呪術廻戦』で日下部が簡易領域の範囲を拡張して領域内に宿儺を引き入れるというのと同じ話だ。やっていることは同じ。斬る代わりに救っているという違いはあるにせよ。 にしても、ソーンダーズ先生のチョイスがそうだからなのか、どの短編も暗い話ばかりだ。チェーホフの「荷馬車で」はとくに暗すぎると思った。こういう暗さは、人生はどん詰まりだ、という気分にさせる。読むのがきつかったし、読み終えてからもきつかった。あまりにきつすぎて、自分の気持ちが落ち込みかけた。鬱になりかけた。これを読んで、なにかプラスの気持ちが生まれうる人もいるのだろうか。生まれうるのだろう。ぜひ感想を聞いてみたい。私はあまり好きではない。私はもういい。お腹いっぱい。一度でいい。 次の仕事を、と考えるとうつ状態に引きずり込まれそうになるので、ちょっとは考えるが、考えすぎないようにしている。考えすぎると、もうこれ以上生きていても仕方がない、もう死ぬしかない、になってしまうため。1日8時間、週5日が最低ラインというのがきつすぎる。1日4時間、週3日でなんとかならないですか。労働と税金は生存に対する罰、ペナルティという側面が現状の社会では強すぎる。生まれたことと生きていることは罪で、その罰として労働と税金で生涯をかけて生まれ生きていることを贖うのだ。私の骨と血と肉がロシア短編小説でできていたら、安酒を飲みまくることで現実逃避しているところだが、いまのところ、私はロシア短編小説ではないので、安酒を飲みまくらない。そのうち、骨の芯まで冷え切ってしまい、いっそロシア短編小説になったら、安酒を飲みまくってしまうかもしれないね。

自己否定をやめる100日、52日目 2025/1/14

天気:晴れ メンタル:吹雪 『ソーンダーズ先生の小説教室』を引き続き読んでいる。この本のいいところは、教材にする短編がそのまま全訳が掲載されているので、自分で訳書を入手する必要がない。今はトルストイの「主人と下男」を読んでいる。この話は主人と下男が猛吹雪の中で道に迷う話だ。70ページくらいの短編で、今日一日中読んでいた。そして、すっかり共感してしまった。登場人物の二人は猛吹雪で道に迷ってしまうのだが、決して引き返そうとしない。そして、さらに困った事態に陥っていく。まだ途中なのだが、こんな感じ。読んでいる側からしたら、「そろそろ引き返したほうがいいんじゃない~?」と思うんだけど、渦中にいるとわからないもんなんだよな、と思う。悪化していても、それがわからない。あるいは、悪化しているとわかっていても、止められないのだった。もうその場をしのぐのに必死で状況把握事態ができていない。 なんとなく重ねてしまうんだ。私も道に迷っている。猛吹雪で視界は一面真っ白。体は震え、つま先の感覚はすでにないし、鼻水がたれてつららになっている。もうどこに行けばいいのかわからない。引き返すこともできない。どこから来たのかがわからないからだ。実際に、仕事を退職して、休んでいて、「次どうするの?」という状態。短編だったら、「それで?」が、今求められているのだが、その「それで?」にどうしても答えられない。もしかしたら、私の人生という短編の読者も、今の私を見てもどかしい気持ちでイライラと貧乏ゆすりをしているのかも。「簡単なことだろう。そこをそっちに行けばいいんだよ」と思っているのかもしれない。でも、渦中の私自身には「どこに行けばいいのか、どうすればよかったのか」、まったくわからないでいる。 だから、この短編にはとても共感している。ソーンダーズ先生がどういうふうに読み解いていくのか、解説編も楽しみである。 このブログはもともと坂口恭平『自己否定をやめるための100日間ドリル』を実践するという目的で始められたが、いったん、もう自己否定をしてしまう精神状態ではないし、自分の精神と関係ないことばかりを最近書いていて、ブログのタイトルに「自己否定をやめる100日」と銘打たずとも日記は日記として書きたいから、「自己否定をやめる」編は52日目にて終了としたい。明日からは別のラベルで日記にしたい。わからないけども。いった...

自己否定をやめる100日、51日目 2025/1/13

天気:晴れ メンタル:気散り すこし気が散っている日中だった。高校サッカー決勝を観たり、YoutubeでCRカップ観たり、にじさんじの麻雀大会観たりしながら本を読んでいた。 今読んでいる『ソーンダーズ先生の小説教室』がとてもおもしろい。これさえあれば、もうこれ以上、小説の創作指南書はいらないと思えてきた。それくらい自分にフィットしている気がする。途中まで読んで積んでいる本でロバート・マッキーの『ストーリー』があるのだが、あの本はあくまですでに文章が書けている人たちが技巧を高めるためのもので、ゼロからまったくもって書けておらず、苦しんでいる私が読んでもあまり意味がなかった。途中で読むのをやめたのは読んでいてもただつらいだけだったからだ。 『ソーンダーズ先生の小説教室』とヴォネガット先生の『読者に憐れみを』。この二冊が、ゼロから「書く」こと自体への入門としては私にとっては最適でバイブルだと思う。今まで、小説の創作指南書はいくつか読んできたが、この二冊だ。 ハリー・ポッターを原書で読みたくなってトライを始めた。気長にやりたい。

自己否定をやめる100日、48日目 2025/1/10 書くと読むについて

天気:晴れ メンタル:薄暗いトンネル 書くことと読むことは同じ行為の別の現れ方ではないかという感じのことを考えている。例えば、書いているときは同時に読んでいる。我々は思ったことを書いているのではない。書いたことを読んでそれを思ったことにしているのだ。また、読むということは書いていることを自分の中で再構築しているという意味においてまったく書いているのだ。 書くということは、たとえば、なにかの作品を観て感想を書くなどというとき、それは心に湧き出る思いがまずあり、それを文章にするという順序ではない。ある気持ちとか考えに対して暫定的に自分の語彙を参照してなるべくふさわしい表現を当てはめて書く。そして、それを読んで思ったこととしたいのだが、このままでは自分の気持ちを表現しきれていないので、より自分の思いに沿った表現に修正していくというのがより正確な順序だと思っている。つまり、この場合書くというのは、「書いて、読んで、思いを参照して、再度修正して書く、そして思いが作られる」という流れなのだ。 読んでいるときにも書いていると言えるというのは、本が伝えたいことを自分の中に構築する過程を、「書く」と言えるのではないだろうかということだ。読んで、本の世界を自分の中に構築する、都度、本を参照しては増築工事のように自分の中に本の世界が構築されていく。しかし、その世界は完全には本が伝えたいことを再現しえないし、実際に再現しているか確かめようもない。あくまでもそのときの自分のオリジナルのもので、この場合も、そのようにして、私の心のなかには「本が伝えたかったことを読み取ったもの」という世界が暫定的に作られる。 書くという行為も読むという行為も「その行為の後で思念や感情や論理や世界が作られる」という自身を場として行われる同様の働きを持った行為である。他者の関わり方の程度が違うために、書くという行為はアウトプットに見え、読むという行為はインプットに見えがちである。だが、個人的には、それぞれはあくまで同じ行為なのである。ただ、他者の介在の程度の差によって、我々はその行為の呼称を変えているというのが私の考えである。

自己否定をやめる100日、47日目 2025/1/9

天気:晴れ メンタル:餃子x6 餃子の王将に行って餃子と麻婆豆腐を食べた。とても美味しかった。食べてからずっと、帰っている途中も、本棚を整理している時も、ぼーっとしているときも、餃子の王将の餃子のことをずっと考えている。餃子の王将の餃子が忘れられない。もっとゆっくり食べたらよかった。ああ、餃子。麻婆豆腐はおいしかったけど普通。やはり餃子なのだった。 前も書いたかもしれないが、前の会社での苦痛に対して自分を責めるのではなく、会社が悪いと他責的になったら、ある種、自分の中での決着が着いたようで、会社のことを思い出してはうじうじするということがほぼなくなった。長い戦いだったが打ち勝った。 自己否定をしないというのは、自分を責めすぎないためにも、いくらか他責的になるという過程を踏む必要があるのかもしれないですね。

自己否定をやめる100日、45日目 2025/1/7

天気:晴れ メンタル:元気 政治家ってコミュニケーションのコストを法外なまでに釣り上げることでその場をやり過ごすけど、その反面そうした行為が日本語のコミュニケーションの基盤に通底するコミュニケーションへの信頼をざくざくと切り崩していっていることには無関心である。 私が小学生の頃の喧嘩で、「やった・やらない」という問題になったときに子ども同士で「証拠は? 何年何月何日何時何分何秒? 地球が何回回ったとき?」という定型句があった。あれを公の場で政治家たちは日夜やっている。 余談だが、コミュニケーションのコストは低い方がいいに決まっている。あなたが馴染みの食堂に行ったとして「いつものひとつ!」と言えば店主から「あいよ!」と相づちがあり、しばらくすれば、目の前にはあなたのお気に入りでいつも食べているメニューが目の前に置かれているというような。そこには、信頼関係の培われたコミュニケーションがある。 政治家たちは往々にして意図的にコミュニケーションのコストを法外に釣り上げることでその場の対話を打ち止める。だが、そうした安易なその場しのぎが信頼を崩していることにもっと自覚的になった方がよいと思う。私はそうしたふるまいはやめたほうがいいと思っている。この場合の信頼は勿論、政治家自身の信頼だけではなく、日本語話者全体で共有されているはずで、されうるはずのコミュニケーションへの信頼である。 だから何なの? という話ではある。私もだから何なのだろう? と思っている。でも、現状の政治家たちの振る舞いには、「さすがにそれはやめたほうがいいんじゃないだろうか…」と感覚的に思わせる何かがある。

自己否定をやめる100日、44日目 2025/1/6

天気:曇り メンタル:それなりに…、ははは…。 流れるように何も考えずにYoutubeで何か観ることはできるのに、小説など本を読むのは、気力が必要になる。流れるように、すっと本が読めるといい。 完璧主義を脱して、かといって完璧に脱しようとするのも完璧主義だから、中途半端で居心地の悪いザラザラした状態でいることに慣れるのを今年の目標としたい。いつだって、状態は暫定的なのだ。

自己否定をやめる100日、43日目 2025/1/5

天気:晴れ メンタル:まあまあ…といったところか…。 デスクの模様替えをした。気持ちがスッキリした。 『フォース・ウィング 第四騎竜団の戦姫』を読んだ。 NHK+で再放送の『スキップとローファー』第一話を観た。 どちらの作品も主人公がいわゆる「おもしれー女」という点が共通している。 ノートに1ページの短編を書いた。名付けて「クソ上司に木を植えよう!」。 私の元の職場のクソ上司に対する怨念はこの短編を書いたことによって解呪され、怨霊は祓われたといってよいだろう。もう思い出すこともないだろう。 呪術廻戦の見開き広告が掲載されたクリスマスの読売新聞を買ったままだったので、せっかくだし壁に飾った。コピーは「忌まわしき正しさ 魂の寄辺」。いい言葉だ。屈託のない笑顔の虎杖とイヤイヤつきあわされている感じの宿儺がいいね! アニメ主題歌であるKing Gnuの「SPECIALZ」の歌詞「今際の際々で踊りましょう」と掛かっているのではと推測している。組み合って踊る虎杖と宿儺。コピーの「いまわ」。 去年意気込んでいたわりに全然小説は書いていないのだが、いろいろなことについて感想を考えて書くということは増えているので、それは日記を書き始めてよかったこと。本を読んで、それに触発されて文章を書いている。この日記自体を始めるきっかけもそうだったわけだし。

自己否定をやめる100日、42日目 2025/1/4

天気:晴れ メンタル:元気 読書が捗ったのでよかった。小説を読んでいるときに文章が描写するものを必ずしも五感に変換して読んでいるわけではなさそうだと感じる。いちいち小説のワンシーンの絵と音、匂いなどを想像しているわけではない。文字列からなる単語の意味をそのまま受け取っている感じがする。そうでなければ、読むスピードに説明がつかない。 フィクションのいいところは自由であるところであり、それは常識、道徳、善なるものを逸脱していても(フィクション内では)別によいということだ。 残虐だったり、卑猥だったり、到底口にするのも憚られることも想像することは罪ではなく、罰されたりもしない。公にしなければよいのだ。自分自身の想像力にも救いがある。空想の潜在能力(ポテンシャル)はまだまだ自分自身にも未知である。 想像力を働かせることを頑張ってみるか。自分のような「社会(と一般に呼ばれているもの)」の役に立たない人間が、生きるのをすべて諦めてしまわない理由にはなる。 最近、自分にとっての図書館のイメージがあり、それは高校の図書室の姿をしているのだった。なぜ高校の図書室を思い出すのかわからない。高校生の頃それほど熱心に行ったわけでもないし。でも自分にとって特別な図書館は“あの”図書室で、普段、通っている地元の図書館ではないのだった。

自己否定をやめる100日、41日目 2025/1/3

天気:晴れ メンタル:焦り なんか眠かった。 じわっとだるい眠気で動きが鈍かった。 いろいろなものをやりたかったが選択ができなくてうまく時間を過ごせなかった。 「没頭」を国語辞典で引くと、「他の事を忘れてその(一つの)事に熱中すること」とある。 「熱中」は「〔興奮して〕一つの事に心を集中させること」とある。今の私にはすることを一つに絞るための指針がないのだった。 何を優先して、何を控えるか、ある程度決めていく必要がある。

自己否定をやめる100日、40日目 2025/1/2

天気:晴れ メンタル:祈 近所の神社に行ってきて祈ってきました。お賽銭に十円玉を取り出して、こ゚縁と五円がかかっているから五円玉のほうがいいのかと思ったが、五円とこ゚縁とかかってるみたいなマナーは気にしなくてよいとインターネットで勉強したので、小さい神社だけど維持費のためにと思い、そのまま十円玉を入れた。 昨日、東京事変の「閃光少女」を聴いていたらアイデアが湧いてきたので、なんか使いたい。こういう日常のふとした思いつきを小説にできたらいいのだが、全然書けない。これはこつこつ頑張りたい。今のところ、場数が足りないのでは。 失敗を怖れすぎていると思った。私は前の職場ではミスを指摘されると萎縮してさらにミスを重ねる上に簡単なことでもミスが増えていくというポンコツだったのだが、「だからなんだ。別にいいじゃないか」という気持ちで今年はいきます。いかせてください。まだ俺やれます。