自己否定をやめる100日、48日目 2025/1/10 書くと読むについて
天気:晴れ
メンタル:薄暗いトンネル
書くことと読むことは同じ行為の別の現れ方ではないかという感じのことを考えている。例えば、書いているときは同時に読んでいる。我々は思ったことを書いているのではない。書いたことを読んでそれを思ったことにしているのだ。また、読むということは書いていることを自分の中で再構築しているという意味においてまったく書いているのだ。
書くということは、たとえば、なにかの作品を観て感想を書くなどというとき、それは心に湧き出る思いがまずあり、それを文章にするという順序ではない。ある気持ちとか考えに対して暫定的に自分の語彙を参照してなるべくふさわしい表現を当てはめて書く。そして、それを読んで思ったこととしたいのだが、このままでは自分の気持ちを表現しきれていないので、より自分の思いに沿った表現に修正していくというのがより正確な順序だと思っている。つまり、この場合書くというのは、「書いて、読んで、思いを参照して、再度修正して書く、そして思いが作られる」という流れなのだ。
読んでいるときにも書いていると言えるというのは、本が伝えたいことを自分の中に構築する過程を、「書く」と言えるのではないだろうかということだ。読んで、本の世界を自分の中に構築する、都度、本を参照しては増築工事のように自分の中に本の世界が構築されていく。しかし、その世界は完全には本が伝えたいことを再現しえないし、実際に再現しているか確かめようもない。あくまでもそのときの自分のオリジナルのもので、この場合も、そのようにして、私の心のなかには「本が伝えたかったことを読み取ったもの」という世界が暫定的に作られる。
書くという行為も読むという行為も「その行為の後で思念や感情や論理や世界が作られる」という自身を場として行われる同様の働きを持った行為である。他者の関わり方の程度が違うために、書くという行為はアウトプットに見え、読むという行為はインプットに見えがちである。だが、個人的には、それぞれはあくまで同じ行為なのである。ただ、他者の介在の程度の差によって、我々はその行為の呼称を変えているというのが私の考えである。