自己否定をやめる100日、45日目 2025/1/7
天気:晴れ
メンタル:元気
政治家ってコミュニケーションのコストを法外なまでに釣り上げることでその場をやり過ごすけど、その反面そうした行為が日本語のコミュニケーションの基盤に通底するコミュニケーションへの信頼をざくざくと切り崩していっていることには無関心である。
私が小学生の頃の喧嘩で、「やった・やらない」という問題になったときに子ども同士で「証拠は? 何年何月何日何時何分何秒? 地球が何回回ったとき?」という定型句があった。あれを公の場で政治家たちは日夜やっている。
余談だが、コミュニケーションのコストは低い方がいいに決まっている。あなたが馴染みの食堂に行ったとして「いつものひとつ!」と言えば店主から「あいよ!」と相づちがあり、しばらくすれば、目の前にはあなたのお気に入りでいつも食べているメニューが目の前に置かれているというような。そこには、信頼関係の培われたコミュニケーションがある。
政治家たちは往々にして意図的にコミュニケーションのコストを法外に釣り上げることでその場の対話を打ち止める。だが、そうした安易なその場しのぎが信頼を崩していることにもっと自覚的になった方がよいと思う。私はそうしたふるまいはやめたほうがいいと思っている。この場合の信頼は勿論、政治家自身の信頼だけではなく、日本語話者全体で共有されているはずで、されうるはずのコミュニケーションへの信頼である。
だから何なの? という話ではある。私もだから何なのだろう? と思っている。でも、現状の政治家たちの振る舞いには、「さすがにそれはやめたほうがいいんじゃないだろうか…」と感覚的に思わせる何かがある。