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日記 2025/10/31 敬語が使えない老人のパーフェクト・デイズ。

天気:晴れ メンタル:昨日よりちょっと浮上 体調が上向いてきて、今日はプライムビデオで映像を見ていた。そのなかで悪い意味で印象にこびりついてしまったのが、ヴィム・ヴェンダース『PERFECT DAYS』で、この作品が好きな人には本当に申し訳ないのだが、わたしには合わなかった。主人公が無理すぎるのと、東京でロケをしているのだが、本当にひどい描き方だと思った。東京都心部は見方によってはたしかにひどい街だと思うけど、その実態以上にひどいと思った。 突っ込みたいことはほかにもあり、20歳くらいの女の子が70歳くらいのおじいさんの頬にキスしたりなんかしない。 あと、これは本当に疑問なのだが、なぜこの世の高齢男性は敬語が使えないんですかね。70歳にもなる大人がなんで声を出して挨拶とお礼をしないんだろうか。それで意思疎通とれてるんだから他人がとやかく言うことでもないけどさ。この主人公も大人しそう、無害そうなだけで本質は巷にうじゃうじゃいる敬語の使えないとても傲慢な爺さんだ。 主人公は公共トイレの掃除を仕事にしているが、掃除をする前から掃除が必要がないくらいトイレがきれいすぎるのも違和感があった。黄ばみ、黒ずみのない公衆トイレ。あと、寡黙で仕事熱心な印象を持たせたいのかもしれないが、あんなに丁寧に時間をかけていちいち掃除をしているのに、利用者がいる間外で突っ立って用を足すのを待っているのも意味がわからない。ふつう、他の区画の掃除などをするなどで時間を使うと思うが。 私服もきれいすぎる。そもそも役所広司というキャスティングがきれいすぎる。役所広司が一番輝いていたのは、石川さゆりが店主をしている高級そうな居酒屋で酒を飲んでいるシーンだけだった。あそこはリッチだった。ビールのCMみたいで。 自認がスタイリッシュで寡黙な30歳くらい、のおじいさん。自分からは何もしていないし、非常に無愛想なのに好印象を与える。とくに異性に。そして、敬語が使えない。まるで村上春樹作品だ。『街とその不確かな壁』を実写にしたらこんな感じになりそうという話(村上春樹作品をきもちわるいとおもっているわけではない。村上春樹のいくつかの作品はわたしは好きである。きもちわるい作品もたしかにあるが…)。 姪がおじいさんの万年床で寝ないだろ、さすがに…。 物語の合間に挟まれるモノクロのカットはそれだけできれいなのだが、だったら...

日記 2025/10/27

天気:晴れ メンタル:まあまあよい ニュートラルで落ち着いている。 こういうニュートラルな状態で一日を始められていることを「よいこと」として捉えていくのがよいはずだ。ニュートラルな状態というのは具体的なプラスがあるわけではないけれども暮らしの中でニュートラルな状態を「よいこと」としてカウントすることが長期的にはプラスなことになるはずだ。 『マーダーボット・ダイアリー』(下)で、マーダーボットがいくつもの連ドラの1話の序盤をいくつか見て、おもしろそうなものだけをピックアップして見る、おもしろくなさそうなものは見ないという行為をしていて、当たり前の行為なんだけど、「そういうことってしていいんだ!?」という驚きと「そりゃそうだよな」という納得があり、おもしろかった。自分もそうしようと思う。アマプラの「Fallout」はグロいことをおもしろがれるタイプの人のためのドラマっぽいので1話の途中だけどやめた。 文章を書くときのおおまかな作業環境がどういう状態がいいのか模索中である。全然わからない。ただ文章を書くことのみに集中しようとすると、ソワソワして落ち着かないので、耳でなにかを聞いて置きたい。作業中はなにか音を流していたい。ラジオか、音楽か、Youtubeか、なんでもいいんだけど、聞いていたい。聞きながら書きたいという感覚はあるな。これというものがないのだった。確立していきたい。 関係ないけど貧乏揺すりをやめられない。

日記 2025/10/26 香山哲著『香山哲のプロジェクト発酵記』を読んだ感想。

天気:曇り メンタル:まあまあよい 香山哲著『香山哲のプロジェクト発酵記』(イースト・プレス、2022)を読んだ。 この本でおもしろいし特筆すべきだと思うのは「寿命」をきっちりと計算に入れてプロジェクトを計画していることだ。一般的な計画を立てることについての本のなかで、「なにかをするということはそれだけの『寿命』を不可避的、不可逆的に消費しているということなんですよ」と当たり前のことを書いている本はそうないのではないかと思う。当たり前すぎて書かれていないのかもしれない。でも、寿命があることを意識するというのは非常に重要なことだ。しかも普段はあまり意識していない。注意したいのは、「人生にはいつとも知れない終わりがあるから、衝動的、刹那的に今を精一杯生きよう」ということでは決してないということだ。むしろ、いろいろなことが起こり得るし長く生きる可能性があるがゆえに無理をしないために今を慎重に生きるとか慎重に計画を立てて後戻りができるようになろう、無理なく計画を遂行できるようにしようということが重視されている。 雑で勝手な要約を許していただければ「損切りを的確に早い段階でできるようになろう」ということではないかとも思う。もし、プロジェクトがスタートしてから「これはやめたい」と思ったとしても、損切りができないと「せっかく長い時間を書けて準備したから」、「せっかくお金を投資したから」、「人に手伝ってもらったから」などといった理由で「やめるにやめられない」という状況に陥るかもしれない。そうなってしまったら一番損害を被るのは自分の「寿命」だ。そのプロジェクト期間はずっとそのなにかのために楽しくない思いに耐え、なおかつ寿命まで不本意に使わなくてはならない。やる気もしだいに失せていく。 そういうことはもったいないのでまず第一に避けたい。そのためにそうならないよう考慮して計画を立てる。いつでも後戻りできるしやめてもいい、あるいはやめたいと思わないで済むような無理のない計画を立てる必要があるのだ。 読んでいてとても勉強になったし、今の自分にはできていないことだと感じた。この本をお供に自分にとっての「生きること」を計画してみたいと思った。

日記 2025/10/21

天気:曇り メンタル:やられている メモ:『ジョジョの奇妙な冒険』 第5部のアバッキオの同僚の警察官の言葉 同僚の警察官は事件の犯人の指紋が付着したと思われる空き瓶の破片を探すために割れた空き瓶を拾い集めていた。それに対して、アバッキオは無駄に終わるかもしれないのにどうしてそんな苦労をしょいこむのか、と訊ねる。それへの警察官の返答。 「そうだな……わたしは『結果』だけを求めてはいない」 「『結果』だけを求めていると人は近道をしたがるものだ…………近道した時真実を見失うかもしれない」 「やる気もしだいに失せていく」 「大切なのは『 真実に向かおうとする意志 』だと思っている」 「向かおうとする意志さえあればたとえ今回は犯人が逃げたとしてもいつかはたどり着くだろう? 向かっているわけだからな………………違うかい?」(単行本59巻) ジョジョの奇妙な冒険第5部黄金の風は、リゾットvs.ドッピオが好き。作家が読者の予想を超えるのがうまい特筆すべきエピソード。物語るのがうますぎる。持っている手札はすべて明らかにしつつ、読者の想定を超えるカードの切り方をするのではるかに想像を超えてくる(そのうえおもしろい)終わり方をする。シンプルなのにあっけないと思わせないところが好きである。    

日記 2025/10/20 「耐える」リソース

天気:曇り メンタル:ややネガティブ 仕事がないわけじゃないのに、仕事ができていないというのはいったいなんなのだろうか。私はなぜ働けないのだろうか。私はなぜこうも働きたくないのだろうか。これは一つの仮説なのだが、人生には有限のリソースというものがあり、普通の人生ではある程度生涯を通して、主に20代から50代、60代までをピークにしてその有限のリソースを消費する。だが、俺の場合、20代のはじめ、大学卒業まででこのリソースをほぼすべて使い果たしてしまった。 このリソースというのがなんのためのリソースかというと具体的には「我慢」とか「耐える」というリソースだ。未来のために「耐える」とか「今は我慢する」とか。そういう無意味だとか苦痛にとりあえず耐えるためのリソースだ。大学までが無意味だったとか苦痛だけの生活だったとは思わない。だけど、私の場合、自分がどうしたいかというより、自分がどうあるべきかということを優先してしまったがために、ずっと常に「耐え」がデフォルト状態になっていて、大学卒業と同時に爆発し、燃え尽きた。大学卒業までは、大学を卒業するという生きる目的(「大学を卒業するべき」)があったが、働くとなると、キリがない。終わりがない。なんのために働くのか? そこでようやく私は自分の中に主体性(「自分はどうしたいのか?」)というものの存在感が薄いということに気がついたのだった。 大学の頃と比べるととくに顕著だが、22歳の頃に比べ、33歳の今の方がよっぽど無意味(と思えるもの)や苦痛(が予期されるもの)に耐えられなくなってきている。その予兆が感じられる時点でもうやりたくない。虚弱になったのかもしれないし、単に老いたのかもしれない。一切興味の湧かないものに対して「とりあえず我慢して頑張ってみよう」というスタンスをとるのが無理になった。学生時代は余裕でできていたのに。 働くことが無意味だとか苦痛だとか言いたいわけでもない。もちろん、労働にそういう側面があることは否定しないけど、それだけではないはずだ。突き詰めれば私にとって「なんのために働くのか」という理由が見つけられていないのだ。大学卒業とともに私の人生は一度爆発し燃え尽きて終わった。だから私は今人生が終わったあとを生きている。目的もなく生きている。なんとなく生きているっぽく生きているだけである。そこにはなにもない。欲がない。虚無...

日記 2025/10/19

天気:晴れ メンタル:落ち着いている 今週で一番体調がいいかもしれない。精神的な不安は残るけど。働きたくないな。きつい仕事をしていたくない。生きることが、ずっと続けてたら体を壊すような仕事を無理にでも続けることなのだとしたら、そして、無理をしなければ生存ギリギリすら維持できないのであれば、それは社会が壊れているのではないだろうか? フルタイムが無理ならば、ほかにどういう働き方ならできるか? 具体的に考えてみよう。どんな働き方ならばできるか。自分が鬱状態だったり、常にきつい仕事ならば週3日程度でしか働けない気がしている。自分の体調がいいとか、身体的に楽な仕事であればフルタイムでもできるかもしれない。仕事をするからにはきつい仕事に耐えなくちゃならないと思っていたが楽な仕事でよくないか? それは自分にとって楽な仕事ということだ。きつい仕事ができないからといって、自分が劣っているだとか思わなくてもよいのだ。

日記 2025/10/18 黙っていられることも大事。

天気:晴れ メンタル:よく眠れて疲れは取れたが元気はない。 こんなことを言ったら、自身のブログで発信するという実践と少し矛盾してしまうことになるが、人はもっと黙れるようになるべきだ。うまく話せるようになることの重要性は世の中では縷々説かれているが、黙れることの重要性はあまり問題にされない。人と円滑でうまくコミュニケーションができる能力が社会ではもてはやされているが、それと同じくらい、あえて黙っていることも非常に重要な能力だと私は思う。黙っているというのは相手からのリアクションを辛抱強く待つという要素でもあり、なにかを言いたくなってしまったときにぐっと飲み込んで言わずにやりすごすということでもある。おもらしのようについ言ってしまうということが時にとんでもない大事になるということもある。言葉にするというのは非常に責任を求められるリスキーな行動である。 話は逸れるが、日本という国家においても、内心の自由は保障されている。日本国憲法第19条では「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」とされている。だからなんだ、という話ではあるのだが、国家という巨大な暴力ですら、個人が何を考え、何を思うかというのは手出しができないのだ。それほどに守られているものが個人と個人の間でも手出しができるわけがない。黙ってさえいれば、話している相手をどれほど嫌いで罵詈雑言を思おうと誰も手出しができない。 しかし、言葉にしてしまうと手出しができてしまう。思っていることを的確に言葉にできるというのは重要なことだが、責任も伴うリスクのある行動である。Twitter(現X)で誹謗中傷コメントをして、開示請求されて賠償金を払った人は定期的に見られる。それってつまりコメントしなければよかっただけの話ではないですか? 多くの場合、不特定多数に向けて発信したポストに対して、誰ともわからない個人が誹謗中傷をする。こうした黙ってさえいれば面倒事に自ら巻き込まれなかったのに、ということが現実ではとても多い。 みんなも黙れるようになろう。元から黙れている人はそれを続けよう。黙れることで得をするということはそうないけれども、黙らなかったことで本来ならば避けられていたはずの面倒事に自ら巻き込まれてしまうことは往々にして起こり得るのだ。

日記 2025/10/15 ささいな好き、ささいな良い

天気:曇り メンタル:やや回復してわりとニュートラル 仕事について考えて文章を書いたり、本を読んだりしている。 「なぜ私はこんなにも働くことが怖いのか?」  私は無職になる前は肉体労働をしていたので、大学に安定したの籍のある研究者、知識人、文化人、文筆家、なんでもいいけどそういった人々が労働について一席ぶっている記事を読んだりすると、ときどき無性にムカつく。特に若者が働けない原因や働かない原因を当人のマインドセットに求めているものなどを読むと上から目線で偉そうだなと思う。文章を書くなんてこんなに楽ちんなこと(この場合は肉体的に楽だということ。つまり、座ってキーボードを打っていても、息切れしたり、ドロドロに汗をかいたり、真っ黒に日焼けしたりしないでしょ)がその筆者にとっては「労働」なのだと思うと、私がしていた「これ」はいったいなんだったんだと思う。しいていえば「罰」じゃないだろうか。 私が今無職で働けておらず、早く仕事を探さなくてはと思いつつも全然本腰を入れられず、「嫌だな~」と先延ばしにして働く気にならないのは、前職での労働が生活のすべてをまるっと労働に置き換える経験だったからである。もし再就職できたとしても、結局のところ同じようなことになるのであれば、それこそ生きている意味などないと思う。そこには、生活はなかった。そもそも家事すらする暇も体力も残らなかった。当然余暇の時間もなければ、体力も残らなかった。人と交流などできなかった。とにかく仕事をするか、仕事のために準備するかだけの生活であった。人間関係は会社のみ、友人はおらず独り。会社の人間関係もいつモラハラ上司に陰口を叩かれるかわからず、誰かが告げ口するかもしれず誰も信用ができないので常に恐怖と隣り合わせ。モラハラ上司におびえて誰にも何も話せないし話したくない。その極度の緊張状態の中で朝から晩まで日差しの下で肉体労働をする。それが生きることのすべてになる。文字通りそれだけの生活である。働くだけしかできず常に極度の疲労状態で、疲れが取れない生活にあなたは耐えられますか? 現に耐えているんだという人もおられるとは思いますが。 そういうことにまたなってしまうことを私はとても恐れているのである。だから、自分にとっての人生における楽しいこととか、世界で良いと思うポイントだとか、ささいなことを集めているのである。メモし...

日記 2025/10/14 1日8時間、週5日労働をやめないか? +労働の選び方がわからない。

天気:曇り メンタル:ややネガティブ 復職するのが無理すぎる。働くのが嫌すぎる。週5日、1日8時間働くのが正社員、フルタイムでの雇用の最低条件というのがどうしても納得できないというか、あまりに苦痛すぎて無理なんだけど、それを拒否すると、すぐさま社会のフルメンバーとしては一切みなされないというか劣位に置かれるのが苦しすぎる。つらい。生存するためだけというただそれだけのこと(裕福になりたいとかでなく)に、これほど苦しい罰を受けなければならないのか。労働は生存に対する罰に思える。死にたいわけではないですが。 バイトから慣らしていって体を適応させていってフルタイムに登用されるにしても自分が一切興味がないことで、というかむしろ自分にとって苦痛な仕事をアルバイトとして選んでしまったときに、仮にその仕事でフルタイムに登用されたとしても、絶対に続くわけがない。だから、例えばコンビニ(一般的に採用のハードルは比較的低そう)でアルバイトとして働かせてもらえることになれたとしても、きっと先がない。なぜなら、私はとりわけ接客というものが苦手で、それをしているだけでとにかくメンタルがすり減ってくるから。常に無理を自分に強いている状態になってしまう。そうだとしたら、そうした仕事でフルタイムで登用されても生きるのがさらに苦しくなるだけだ。 だからこそ、アルバイトを選ぶ時点で、ちょっとでも興味が持てることを選ぶというのを自分は大事にしたいんだけど、私はあまりに多くのことに興味がなさすぎる。興味範囲が狭すぎるのか。あらゆる仕事に対して、「これはとてもつらそうだ。自分にはとてもじゃないが無理だ」という気持ちしか湧かない。だから、求人サイトを見てもつらさの感情ばかりだ。最低でも1日8時間週5日の苦痛に耐えてようやくギリギリの生存が許されるのかと。 私は文章が書きたいけど、文章を書く仕事は求人サイトを見てもない。趣味として楽しく自発的に書ければいいけど、今は精神状態が悪化しているせいで今日のこの日記みたいなネガティブな文章しか書けない。どうにか元気になりたい。