日記 2025/10/20 「耐える」リソース
天気:曇り
メンタル:ややネガティブ
仕事がないわけじゃないのに、仕事ができていないというのはいったいなんなのだろうか。私はなぜ働けないのだろうか。私はなぜこうも働きたくないのだろうか。これは一つの仮説なのだが、人生には有限のリソースというものがあり、普通の人生ではある程度生涯を通して、主に20代から50代、60代までをピークにしてその有限のリソースを消費する。だが、俺の場合、20代のはじめ、大学卒業まででこのリソースをほぼすべて使い果たしてしまった。
このリソースというのがなんのためのリソースかというと具体的には「我慢」とか「耐える」というリソースだ。未来のために「耐える」とか「今は我慢する」とか。そういう無意味だとか苦痛にとりあえず耐えるためのリソースだ。大学までが無意味だったとか苦痛だけの生活だったとは思わない。だけど、私の場合、自分がどうしたいかというより、自分がどうあるべきかということを優先してしまったがために、ずっと常に「耐え」がデフォルト状態になっていて、大学卒業と同時に爆発し、燃え尽きた。大学卒業までは、大学を卒業するという生きる目的(「大学を卒業するべき」)があったが、働くとなると、キリがない。終わりがない。なんのために働くのか? そこでようやく私は自分の中に主体性(「自分はどうしたいのか?」)というものの存在感が薄いということに気がついたのだった。
大学の頃と比べるととくに顕著だが、22歳の頃に比べ、33歳の今の方がよっぽど無意味(と思えるもの)や苦痛(が予期されるもの)に耐えられなくなってきている。その予兆が感じられる時点でもうやりたくない。虚弱になったのかもしれないし、単に老いたのかもしれない。一切興味の湧かないものに対して「とりあえず我慢して頑張ってみよう」というスタンスをとるのが無理になった。学生時代は余裕でできていたのに。
働くことが無意味だとか苦痛だとか言いたいわけでもない。もちろん、労働にそういう側面があることは否定しないけど、それだけではないはずだ。突き詰めれば私にとって「なんのために働くのか」という理由が見つけられていないのだ。大学卒業とともに私の人生は一度爆発し燃え尽きて終わった。だから私は今人生が終わったあとを生きている。目的もなく生きている。なんとなく生きているっぽく生きているだけである。そこにはなにもない。欲がない。虚無である。私が見つけるべきは自分の趣味だとか趣向だとか、働いてお金を稼いだらこういうことにお金を使いたいという目的ではないかと思う。生きる意味だとか、やりがいみたいな高尚なものではない。自分探しをすべきとかそういうことではない。本当に単純なこと。「自分の好きな食べ物は何か?」とかその程度の水準の「私は何が好きか」という話だ。それすらも自分でよくわからない。なにもかもなんでもいいしどうでもいいと思う。今のところ本当に欲がない。例えば「これ欲しいな」と思った時に、「欲しいけど高くて買えない」という額だったら、普通の人なら「お金を稼いで貯めて手に入れよう」と思うかもしれないが、私の場合は「仕方がない」と即座に諦める。働いてまでほしいとは思わない。自分の欲望の部分がどんどんと枯渇していくのが恐ろしい。これはどうにかせねばならない。時間が経てば癒えるものかもしれないと思いつつも、いつ癒えるものかわからないという焦りがある。とりあえず、自分が良かったと感じたこと、好きだと感じたことをこまめに紙に書くことをしてみている。もしかしたら、自分がどういう人間なのかわかるかもしれない。