投稿

4月, 2025の投稿を表示しています

日記 2025/04/30

天気:晴れ メンタル:良 エアコンをつけた。春が消失したため。 このブログは個人的な日記なのだが、本当のことばかり書くというわけにもいかないので、ところどころぼやかしている。まあ嘘もついているが後ろめたくあったりもする。 これからは堂々と嘘をついていきたい。

日記 2025/04/29 遠回り

イメージ
天気:晴れ メンタル:凪 理想の世界を描きたいと同時にその理想を描くにはその世界での「理想への届かなさ」を描きたい。というか、「届かなさ」を描くしかない。理想を書くには、理想が完遂されて行き届いた世界はありえないのだから、理想を描くというのはそれがうまくいかないという形で書くしかない。理想は否定形でのみ描かれる。多分。きっと理想を描いてしまうと、胡散臭くなってしまうだろう。リアリティもないし。読んでも納得感もない。理想は挫かれる形で輪郭を書けるということだと思う。 私は今、日記は書けるけど本が読めない。この状況を打開するには自分にとっての理想がどのようにうまくいっていないのかを考えるのがいいかもしれない。『スティール・ボール・ラン』を読み直してもいいかもしれない。 『一番の近道は遠回りだった』『遠回りこそが俺の最短の道だった』というジャイロの言葉通り、私は人生を遠回りしていこうと思う。遠回りをすることでもなにかしらの道がそこにはあると、そう祈る。 ジャイロ・ツェペリ(『スティール・ボール・ラン』)

日記 2025/04/28 ユートピアを乱立させよう

天気:曇り メンタル:凪 朝、ふと思い立って散歩をした。ひとつ何かを達成した感じがあり気持ちがいい。 理想を考える。理想の世界。理想の社会。理想の暮らし。そういうものを細かく具体的に考える。ディストピア小説の受容のされ方で気になるのはそれが翻って「ユートピアというものはありえない」というイメージが先行して、だからそもそもユートピアを考えないとなってしまうとよくないと思う。ユートピアというものは各々が考えたほうがいいと思う。「自分の考えた一番理想の世界」を各々が考える世界が私の考える理想の世界だ。現実では多くの人が現実を語るが理想を語らない。理想を語る人の揚げ足を取ることには熱心な人は多い。私の考える理想はこれ、私はこれ、というふうにいろいろな理想が乱立するのがよい。それは自分自身の中においてもガチガチの一つの理想があるのではなくて、自分の中にもいくつもの理想が乱立しているのが良い。理想同士が矛盾し合っていても良い。その中でゆるい理想の輪郭が自分の中に浮き上がる。それが良いと思う。なんでもいい。 「ユートピアって結局のところディストピアだよねw」みたいな言説に振り回されないことだ。言いたいことはわかるけどさ。 オーバーウォッチ2のカスタムゲームでエイム練習(VAXTA)をやってるときが一番のチルタイムだ。オーバーウォッチ2で一番おもしろい。

日記 2025/04/26

天気:晴れ メンタル:凪 職業支援のところに行ってきた。とても勉強になった。 Mr. Childrenの『Q』を久しぶりに聞いたら心に沁みた。『It’s a wonderful world』も好きだが、『Q』の「人生ってくたびれるしつらいことばっかりだけどたまにいいこともあるしもしかしたら最後は悪くなかったって言えるかもね…」という全体のくたびれた雰囲気がこれぞ「人生」という感じがして好きになった。決して人生の明るい面ばかりを見るわけではない。でも、暗い面もあるけどいいところもないわけではないよと歌っている。今の自分の状態に重ねてとても納得した。そうだよね~と思った。 私は自分の気持ちを他人に知られることにとても恐怖を感じる。気持ちを知られることが相手に弱みを握られているかのような気がしてしまうために、他人とうまくコミュニケーションが取れない。時候の挨拶とか定型句でしか日常会話ができない。言いたいことが言えない。なんとかしたい。 小説が書きたいんだけど、全然書けなくて、私の小説に対する熱意はこの程度だったのかと絶望的な気分になったり、小説がやりたいことでないと決めてしまったら、人生からやりたいことがなくなってしまうと怖くなって、それでも小説が書けないから、実際に涙が出てくる。手放してはいけないものを手放さざるを得ない。あるいは、自分にとってはとても大切な人だけど、相手から選ばれなかったかのような。なんとか書けるように試行錯誤したい。というか、書くしかないんだ。文字通り書くしか、書いたことにはならない。ボールペンを握って、紙に文字を書いていくだけ。それだけ。でも、なんか書こうとしても、心の中を覗くとぽっかりと空っぽだけがある。なにもない。空疎だ。そしてまた涙が出そうになる。まあ、すぐ引っ込むんだけど。仕方なくため息をつく。 最近は本を読むのもまったくできていない。

日記 2025/04/22

天気:晴れ メンタル:元気 デカい主語(例えば「みんな」)、デカい副詞(例えば「いつも」、「必ず」、「絶対」など)を使って思考をしている時は極論に行きがちな衝動的だったりネガティブな精神状態なのだと考えて注意したほうが良さそう。柔軟な考え方、様々な解釈を許容できるときは上記のようなデカい主語や副詞を使わず、もっと細かく慎重な表現をできると思う。程度を考えよう。 相変わらずオーバーウォッチ2をしている。タンクに目覚めてウィンストン(インテリゴリラ)とザリア(人類最強ゴリラ)を主に使っている(ときどき、シグマおじいちゃん)。一方的に蹂躙できたときは楽しいが、相手がうますぎて何もさせてもらえないときはキャラの相性など関係なくどんなキャラでも通用しないのだった。一番熱くなるのはフラッシュポイントでの2対2のラストの当たり合い。昨日はそこで負けてしまったがやりきった感があり、負けても気分は清々しかった。乙骨に敗北したときの石流くらい満腹だった。 オーバーウォッチ2をプレイしていて、偶然ヘッドショットでキルするだとか偶然同時に三人をキルするとかそういう「偶然うまくいくこと」がときどき発生する。そこで思ったのだが、なにかが上達するということは、例えばオーバーウォッチ2で言えばエイムが良くなるとかプレイの精度が上がるというのは結局のところ、その「偶然うまくいくこと」の発生確率を増やすことなのだ。私は、予想外に試合をキャリーできたときに「今のはよくわからないけど“偶然”うまくいっただけだから」とその偶然性を自分の中で強調して誰にというわけでもなく謙遜してしまうのだが、「偶然うまくいった」というのは事実だから、そもそも謙遜でもなんでもない。あらゆることに完璧にうまくいくというのはなく偶然うまくいくの精度だけがあるのだから、そこにあるのは偶然の精度の高いプレイヤーと偶然の精度の低いプレイヤーのグラデーションなのだ。程度の問題とも言える。重要なのはその精度であり、発生確率を高めていくことなのだ。かといって精度が低いからといってその「偶然うまくいったこと」に価値がないわけでもない。うまくなることはその「偶然うまくいった」ときの自分を肯定することからその第一歩が始まるのだろう。自信をつけていけ。

日記 2025/04/09 理想を語れる大人になろう

天気:晴れ メンタル:沈みかけている ものすごく雑な話をさせてほしい。暴論であることは承知だが、少し聞いていってほしい。現代日本には理想を語れる大人がいないと思う。あるいは存在するが非常に声が通りづらい環境な気がする。みんな、いかに現実に適応するかということに四苦八苦するばかりである。 例えば、私はもっと働くことのハードルが低い社会環境を望んでいるので、「週4日、一日6時間労働で最低限貧困ではない生活ができる収入が得られたらいいよね」という理想を夢見たとして、それを誰に言っても(これは本当にあらゆる誰に言っても)、「そんなの無理だよ」と返ってくると思う。意見を求めてなんかいなくてもそういう反応が返ってくると容易に想像がつく。違うんだ、私は今”この”「現実」について語っているんじゃない、「理想」について語っているんだ。でも、通じない人には何を言っても「実際問題、無理な話でしょ」と頑なに言われると思う。実際に実現可能かどうかの話をしているわけでは全然ないにもかかわらず。 理想というのはそれを実現することだけに意味があるわけではないと思う。つまり、実現できないということが直ちにその理想を無意味にしてしまうわけではない。理想とは多くの場合、実現されないかもしれない。だが、理想を掲げて、そこを目指して努力していく過程はそれだけでも充分に意味はある。でもこういう意見はあまり世の中で理解されているとは言い難い。 先に挙げた「週4日、一日6時間労働で最低限貧困ではない生活ができる収入が得られたらいいよね」という理想が実現されるというのは確かに実際に実現できそうかと言われれば、私も確かにほとんど無理だと思う。でも、この理想を掲げ、実現を目指して努力することで、その過程で、「週5日、一日8時間労働で最低限貧困ではない生活ができる収入が得られる」(ワーキングプアではない水準の)状況は得られるかもしれない。 実際の現実で「週5日、一日8時間労働で最低限貧困ではない生活ができる収入が得られる」状況の人は日本においてもそう多くはないと思う。残業が長かったり、「週5日、一日8時間労働」に時間を抑えていては家計がままならないケースもあるだろう。 「理想を語る」というのは実現できるか否かにかかわらず、語ること自体に、そして理想を目指す過程自体に効用があると思うのだが、そういうことを語る人はあまりいな...

日記 2025/04/07

天気:晴れ メンタル:ティルト オーバーウォッチ2を最近プレイしていたが、勝ち方が見えない負け方で負けてばかりでどうしたら勝てるようになるのかわからず精神状態がティルト(落ち込んで膠着状態になり雑なプレイをしてしまうこと)しているのでしばらく放置したい気分。 4月の100分de名著が『ねじまき鳥クロニクル』を取り上げるので楽しみ。 自分の欲望がないと感じる。「ない」、というよりは「欲望がなにか?」に自分で気づくのにとても時間がかかるため、その場では気づけずに、欲望がないように感じてしまうというのが近い。とても漠然とした話になるけどなにかをするとして、自分がこうしたいと思うことをするぞという感覚が割合薄くて、その場においての最適解は何かを優先的に考える感じ。結果的に自我のないその場しのぎ人間になっている。でもそういう自我のないその場しのぎというのは積み重なってくるとそのつまらなさがキツくなってくるんだよね。 つまり、ある程度はその場での最適解を求めつつも、ある程度は自分のやりたいことを押し付けていくような動き(最適解から遠ざかるとしても)もしていかないとおもしろくないのかもしれない。結局のところ、やりたいことをやろうと試みているときが(たとえそれがうまくいかなくとも)一番楽しいわけだから。 自分の欲望に気づきにくく、「自分の考えるその場での最適解」を優先しがちの例としてこんなものがある。 例えばだが、自分の所属するコミュニティのイベントで定員10名のイベントがあって自分を含め8名くらい集まったところで、開催直前に残り2名必要というところに3名応募が来てしまって11名集まったとする。こんなときに、「自分が一人抜ければ、最後に来た11人目があぶれずに済むよなあ」と思ってしまって、結局「すみません。体調が悪いため欠席させてください」とメッセージを送って、11人目を参加させるというエゴを働いてしまう。自分の主観だと11人目が不憫なので無視するわけにいかなくなってしまうのだ。これが12人集まっていたら、自分一人が抜けても丸く解決しない問題だが、11人だと自分一人が抜ければ丸く解決できてしまい気持ちよくなれるので、抜けてしまう。そして、後から「うわ~、やっぱめっちゃ参加したかったな~」という気持ちが出てきてちょっと傷つくし後悔する。でも、自分が抜けなくてももしかしたらちょっと傷つ...

日記 2025/04/01

天気:雨 メンタル:普通  今さらであるのだが、孤独に苦しんでいる。単に「今」友人がいなくて孤独に苦しんでいるということに限った話ではない。私は30数年生きてきてほとんど友人を作ることがなかった。それは私が致命的に歪んだ考え方を持っていたからだ。今はその歪んだ考え方を改めようと試みているが、長年こびりついてしまった歪みを払拭するのにとても苦戦している。 その歪んだ考え方というのは「 友人を必要とすることは人として未熟だ 」という考え方だ。子供の頃のいつごろからかそういうふうに思うようになっていた。友人がいるということが自分にとってはあたかも弱みを握られているかのような感じもした。そして、さらにひどいことに 友人を必要とすることは人として未熟だ と思うことが、次第に 孤独に耐えられている自分は人として強く、成熟できつつあるのだ と思うようになっていた。もちろん、そんなはずはなく、私は大学4年になるととうとう孤独に耐えられなくなり、鬱状態を悪化させ、1年間休学することとなる。 高校生の頃、教育実習生が言った「高校時代の友人は一生物になるよ」という言葉を冷めた態度でバカにして聞いていた自分を覚えている。自分の頬をひっぱたいてやりたい。目を覚ませ。教育実習生の言った言葉が本当かどうか、私にはもう確認のしようがないのだが、少なくともいつのときも友人は大事だ。私には友人がおらず、きっとこれからもいない状態が続くだろう。少なくともいきなり友人ができるということはないから、これからも苦戦し続けると思う。ときには孤独に耐えられず鬱状態になってしまうときもあるかもしれない。ときにはそういう期間も起こり得るだろう。何がいいたいかと言うと、友人という関係性が一人でもつながりがあるということはいいことだということです。 人生において孤独な時間は確かに必要だ。だが、常に孤独を選ばざるを得ない、いわゆる「孤立」は、私のように人生を非常に苦しくしてしまう。友人関係に限らず緩いつながりでもあるだけで精神的に風通しが良いだろう。