日記 2025/04/09 理想を語れる大人になろう

天気:晴れ
メンタル:沈みかけている

ものすごく雑な話をさせてほしい。暴論であることは承知だが、少し聞いていってほしい。現代日本には理想を語れる大人がいないと思う。あるいは存在するが非常に声が通りづらい環境な気がする。みんな、いかに現実に適応するかということに四苦八苦するばかりである。

例えば、私はもっと働くことのハードルが低い社会環境を望んでいるので、「週4日、一日6時間労働で最低限貧困ではない生活ができる収入が得られたらいいよね」という理想を夢見たとして、それを誰に言っても(これは本当にあらゆる誰に言っても)、「そんなの無理だよ」と返ってくると思う。意見を求めてなんかいなくてもそういう反応が返ってくると容易に想像がつく。違うんだ、私は今”この”「現実」について語っているんじゃない、「理想」について語っているんだ。でも、通じない人には何を言っても「実際問題、無理な話でしょ」と頑なに言われると思う。実際に実現可能かどうかの話をしているわけでは全然ないにもかかわらず。

理想というのはそれを実現することだけに意味があるわけではないと思う。つまり、実現できないということが直ちにその理想を無意味にしてしまうわけではない。理想とは多くの場合、実現されないかもしれない。だが、理想を掲げて、そこを目指して努力していく過程はそれだけでも充分に意味はある。でもこういう意見はあまり世の中で理解されているとは言い難い。

先に挙げた「週4日、一日6時間労働で最低限貧困ではない生活ができる収入が得られたらいいよね」という理想が実現されるというのは確かに実際に実現できそうかと言われれば、私も確かにほとんど無理だと思う。でも、この理想を掲げ、実現を目指して努力することで、その過程で、「週5日、一日8時間労働で最低限貧困ではない生活ができる収入が得られる」(ワーキングプアではない水準の)状況は得られるかもしれない。

実際の現実で「週5日、一日8時間労働で最低限貧困ではない生活ができる収入が得られる」状況の人は日本においてもそう多くはないと思う。残業が長かったり、「週5日、一日8時間労働」に時間を抑えていては家計がままならないケースもあるだろう。

「理想を語る」というのは実現できるか否かにかかわらず、語ること自体に、そして理想を目指す過程自体に効用があると思うのだが、そういうことを語る人はあまりいない。

余談だが、私が大学の頃に在籍していたゼミにはちょっとした標語みたいなものがあって、それが「理想を語れる大人になろう」というものだった。当時はかっこいい言葉だなというくらいにしか思っていなかったが、今はいかにこの言葉が慧眼と洞察に満ちていたかを実感するばかりである。そもそもこの標語自体が理想を語っていたのである。なぜなら「理想を語れる大人」というのは現実ではそもそも稀有な存在だからである。「現実を語れる大人」は数多くいる。「現実への適応の仕方を語れる大人」も前者よりは少ないがいる。しかし、「理想を語れる大人」というのは本当にいないのである。ゼロではないが非常に数少ない貴重な存在である。当時は気づかなかったが「理想を語れる大人になろう」というのは簡単なことではないのだ。それ自体が理想であり現実においてはほとんど無理難題なのである。我々にできることは、せめて「理想を語れる大人」になれるよう努力し続けることである。結局「理想を語れる大人」にはなりきれないかもしれない。でも目指す過程には意味があると信じたい。「理想を語れる大人」に”なろうとする”人が増えていくだけでも、この世界はそれぞれの理想への推進力を持ってすこしずつ良くなっていくのではないかと私は思うのである。

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