日記 2025/04/22
天気:晴れ
メンタル:元気
デカい主語(例えば「みんな」)、デカい副詞(例えば「いつも」、「必ず」、「絶対」など)を使って思考をしている時は極論に行きがちな衝動的だったりネガティブな精神状態なのだと考えて注意したほうが良さそう。柔軟な考え方、様々な解釈を許容できるときは上記のようなデカい主語や副詞を使わず、もっと細かく慎重な表現をできると思う。程度を考えよう。
相変わらずオーバーウォッチ2をしている。タンクに目覚めてウィンストン(インテリゴリラ)とザリア(人類最強ゴリラ)を主に使っている(ときどき、シグマおじいちゃん)。一方的に蹂躙できたときは楽しいが、相手がうますぎて何もさせてもらえないときはキャラの相性など関係なくどんなキャラでも通用しないのだった。一番熱くなるのはフラッシュポイントでの2対2のラストの当たり合い。昨日はそこで負けてしまったがやりきった感があり、負けても気分は清々しかった。乙骨に敗北したときの石流くらい満腹だった。
オーバーウォッチ2をプレイしていて、偶然ヘッドショットでキルするだとか偶然同時に三人をキルするとかそういう「偶然うまくいくこと」がときどき発生する。そこで思ったのだが、なにかが上達するということは、例えばオーバーウォッチ2で言えばエイムが良くなるとかプレイの精度が上がるというのは結局のところ、その「偶然うまくいくこと」の発生確率を増やすことなのだ。私は、予想外に試合をキャリーできたときに「今のはよくわからないけど“偶然”うまくいっただけだから」とその偶然性を自分の中で強調して誰にというわけでもなく謙遜してしまうのだが、「偶然うまくいった」というのは事実だから、そもそも謙遜でもなんでもない。あらゆることに完璧にうまくいくというのはなく偶然うまくいくの精度だけがあるのだから、そこにあるのは偶然の精度の高いプレイヤーと偶然の精度の低いプレイヤーのグラデーションなのだ。程度の問題とも言える。重要なのはその精度であり、発生確率を高めていくことなのだ。かといって精度が低いからといってその「偶然うまくいったこと」に価値がないわけでもない。うまくなることはその「偶然うまくいった」ときの自分を肯定することからその第一歩が始まるのだろう。自信をつけていけ。