日記 2025/11/26
天気:晴れ
メンタル:今日はのんびりである
「いかに無理をしないか」という視点から生きることを(退職してからはとくに)考えてきたけれども、そうではなくて肯定的な言葉で生きることについて語れるようになることも必要ではないかと思うようになった。
未来の自分がこれを読み返したときに極端な解釈をしてほしくはないのだが、誤解を恐れずに言えば、「どんなことだったら無理をしてもいいと思えるか」という視点も必要ではないかと思う。実際に自分に無理を強いるかどうかは別として、そういう視点から物事を見て判断し選択していくというのはひとつの考え方だろう。
最近読んだ西村佳哲著『自分をいかして生きる』では、「生活」と「仕事」が同義として語られるのだが、現代において「仕事」は同義と呼ぶにはあまりに過度である。「働くことは暮らしていくことである」と呼ぶためには、働くことが生活の一部に収まるようでなくてはならない。なぜなら、「働くことだけが暮らしていくことではない」からである。いろいろな要素が混ざり合い生活を作っていくと考えたほうがより自然である。現代社会のような仕事(賃労働と言ってもよい)と仕事に付随する時間(支度や通勤)の二つが一日の大半を占めるあり方は豊かな生活とは言い難いし、実際問題として我々は仕事を原因として心身を害する。仕事を一日中しなくてはならない日があるというのは、それ自体はある程度許容せねばならないとは思う。これは程度の問題である。しかし、そういう日が常習的になってしまうとしたらそれはもはや許容できないだろう。生活とは労働だけのものではない。生活は、様々な家事はもちろん、他人との交流や、趣味、買い物などいろいろなものが複合して営まれていくものであるはずだ。
仕事だけの生活は結局のところ、「なんのために生きているのか」我々をわからなくさせる。決して、健康的で余裕のある生活ができているときの我々が「なんのために生きているのか」を理解できているというわけではない。健康的で余裕のある生活をしていると「なんのために生きているのか」を意識する必要がないのだ。しかし、仕事だけをせざるをえない生活を送っていると、そのうち「生きている意味がない」という形で我々の前に「生きている意味」の「不在」が現れてくる。生きている意味というのはしばしばその不在として頭に浮かぶのだ。
もしあなたが生活の中で「生きている意味」を考え出しているとしたら、それは生活を見直したほうがいい場合もあるかもしれない。それはある種の心身の不調や人間関係での不和などの兆候かもしれないからだ。