日記 2025/05/16
天気:晴れ、夏が近い
メンタル:冷静
トイレの壁にカレンダーを掛けてある。今朝それをボーッと見ていて、ふと土曜日=SATURDAYってつまり土星=SATURNってこと!? と気がついた。調べたら実際の語源はどうやらそうらしい。なんで今まで気が付かなかったのだろうか。気がつけてよかった。
多人数の人間関係にしろ、1対1の人間関係にしろ、自分っていなくてよくないかと思う。実際にその場にいる必要がないかどうかに関係なく自分の気持ちとしてそう思う。
「必要」はないよなというのはその通りだと思うけど、生きちゃっているわけだし、生きている以上はもう仕方がないとも思う。ふとすると「別にいる必要はない」という方へ考えが持っていかれて、よくない。必要性で判断していたら、人間関係なんて何も動けなくなってしまう。
あるとき、私はある友人を思い切って遊びに誘った。結果的には友人の日程の都合がつかず「ごめんね~」と断られた。そのときに、自分が本当にその友人と遊びたかっただろうか(また今度誘いたいだろうか)と考えると、「断られて残念」とか「一緒に遊べなくて残念」という気持ちはなくて「断られてよかった、ホッとした」という気持ちが真っ先にあった。誘いを断られた後で実は自分が断られたくて遊びに誘っていたと気づくのだった。遊びの誘いを断られたことでホッとしている。そして、断られたことによって「一度断られているわけだからもうこれ以上その相手を遊びに誘う必要はなくなったな」と考えている(何様だよと自分で思うけど…)。つまり私の中では友人関係を切りたくて切っている感覚。相手が嫌いなわけでもないのになんか歪んでいると思う。一般的にそういうタイプの下心では他人を遊びに誘わないと思う。一緒に遊びたくて誘うはず。必要性で物事を考えるのはよくないと思っているんだけど、意識的にはそう思えても、無意識なところではそう思っている。私はたぶんあらゆる人間関係において続いていくことがなんか居心地が悪くて耐えられないのだ。あらゆる関係性をできることなら終わらせたい(もちろん無意識の感覚の話で、実際に終わらせたいわけではない)。だから上記の場合は、求めていたのは「遊びの誘いを断られた」というまさにその状況であって、遊ぶ約束に応じてくれることが欲しかったわけではないのだ。なぜなら「(一度誘ったから)もうこれ以上誘わなくていい=これ以上関わらなくていい」というなんか変な理屈が自分の無意識でまかり通っているからだ。自分の中ではスッキリと納得できるのだが、こうして文字に起こしてみるとやはりゆがんでいるように思う。まあ、こうして書いてみても私は「友人」と呼んだが、その相手は私のことを「友人」だと思ってくれているかどうかはわからないので、めんどうな薄い関係性の人から声をかけられたからとりあえず断ったという可能性だってある。なんなら、私はそうであってくれとすら思っている。相手にとって自分が大切な友人だとしたら困る。私なんぞ、どうでもいい人間であってくれと思う。
人生で長い付き合いの友人関係が続いたことがないからわかんない(学年が上がるなどでクラスが変わるといっさい関わらなくなる、卒業するといっさい関わらなくなるため)んだけど、学校や会社の外でわざわざプライベートな時間を費やしてまで誰かと一緒に何かをするってつくづくよくわからない。経験がないわけではないけど楽しさより辛さのほうが強く感じられる。「また会いたいね」とか「また会おうよ」とかいった再会のフレーズもよくわからない。理解しがたい。私は全く会いたくない。相手に悪感情があるとか嫌いだとかではなくても、会う必要がないのに会うというのがわからないからだと思う(この感覚は自分でも変な極論だと思う)。「会ってどうするの」、「会ったとしてだからなんなの」という言葉が湧く。自分でもわからない。これは比較的幼い頃からそうで、小学生高学年ごろから放課後に友達と遊ぶということを一切しなくなった。そのまま、中学でも高校でもいっさいしなかった。大学ではゼミの延長で遊んでいたけど、みんなとワイワイ騒いでいるときほど孤独が強烈に感じられ、友人たちと別れて、家に帰ってくるとものすごく虚しかった。誰かにひどいことをされたというわけでもない。とにかく自分が所属しているという感覚をどうしても持てず、常に自分がその場にいながらにして「いられない」という感覚に苛まれた。
荒木飛呂彦の『ジョジョリオン』という漫画のキャラクターのセリフに「幸せっていうのは誰かと思い出を共有することよ」というのがあって、そのセリフ自体は「そうだよな~」とか「いい言葉だな~」と思うし、とても気に入っているんだけど、自分の実生活では「誰かと思い出を共有する」のは耐え難いかもしれない。「思い出を共有する」というのは「体験を共有する」と言い換えられると思うんだけど、私は「体験を共有する」ということに「自分の弱みをさらけだした上にその弱みを握られるかもしれない」という恐怖が上回ってしまって体験を共有したくない。だからいつも、本当に人生のいつも、私はある種の孤独なのだと思う。