日記 2025/05/14
天気:晴れ
メンタル:まあまあ元気
よくわからないことばかりが心のなかで思われる。よくわからないことばかりが、うまく言葉にできないことばかりが心の中にある。自分というものがないように思われるのは、この自分の中の言葉に出来ないことがあまりに多いからではないか。私に自分がないというわけでない。自分がない人間がいるとは考えづらい。私にだって自分はある。しかし、対人関係になると、自分というものが息を潜めてしまってあたかも自分がないように見えるのだ。対人関係においてうまく言葉に出来ないこと、伝えたいが伝えられないこと、伝えるのが怖いこと、そうしたものの多くが私の中には実はいつもうごめいている。
自分の中には、本心の自分と対人向けの自分というのがあり、くっきり分けられている。他人と関わるときは、私は本心の自分のシャッターを締め切って、出入りを封じる。そして対人向けの自分でのみ他人と関わる。ということを人間関係において私はしている。あえて言葉にすればそうなる。でも、普通の人は、対人向けの自分として振る舞いつつも本心の自分を小出しにできそうなら小出しにするらしい。他人との距離感や関係性で本心の自分を出していいかどうか、あるいはどのくらい出してもいいか決めているっぽい。私は他人に対して少しでも本心の自分を出すことに強い恐怖を感じる。それはどんな関係においてもそうだ。小出しにすることもためらわれる。だから、対人向けの自分のみで人と関わるんだけど、そうしているとだんだん正体不明の虚しさを感じるし、自分はここにいなくてもいいのでは? と思ったりする。一方で、他人から見れば、対人向けの自分としてのみ人と関わっている私は、相手をひどく苛立たせるらしい。特に仕事では自分の意見がないと感じられたり、「指示待ち」と感じられるようだ。ちゃんと確かめてないから正確にはわからないけど。
『パン焼き魔法のモーナ、街を救う』(T・キングフィッシャー、原島文世訳)を読み始めた。この世界の魔法は、現実の個性という言葉の使い方に似ている。魔法は使える人と使えない人がいる。魔法が使えても、社会で求められるいわゆる「役に立つ」魔法もあれば、あんまり使い道のないと思われる「役に立たない」魔法もある。使える魔法を自分で選ぶことはできない。 誰にでも魔法を使える可能性はあるが、使う機会がなければそもそも自分に魔法が備わっていることに気づかない。作中では竜巻と会話できる魔法が使える人がいたとしても、作中の舞台の街では竜巻は起こらないのでそうした魔法を持っている人がこの街にいても自身の能力に気が付かないことになるそうだ。とてもおもしろい。現実においても、誰しもが個性を持っているという言説はあるが、実際に誰しもが必ずしも自分には個性があると思っているわけではない。個性なんてないと思っている人もいるだろう。それはたまたま使う機会を(不運にも)得られていないだけかもしれない。