日記 2025/02/12
天気:晴れ
メンタル:ややよくなる
X(旧Twitter)のアカウントを削除した。精神的に参ってしまうことがずいぶん前から多くなって見ないようにしていたのだが、アカウントがあること自体によって気が散る。FOMOという概念と近いかもしれない。見る手段がある状態で保留にしている感じが居心地が悪いので積極的に削除することにした。見ないからといってこの世からひどいことが起こらなかったことになるわけでもなく、ひどいニュースがなくなるわけでもないが、精神衛生を保つために必要なことだった。得られる情報というメリットと精神的にダメージを受けるデメリットを比較したとき、デメリットが上回ってしまった。これはBlueskyにも言えることだが、SNSで話はできない。議論はできない。SNSという極小の世界でいい大人たちが血眼になって言い争いしたり陰謀論を広めたりしている。そんな極小の世界に自分で自身の精神を傷つけ荒廃させていたのだと思うと実にくだらない。短文で話し合いができるわけがないということはつくづく思い知ったし、むしろ、人間の暴力的な性質を強化するばかりで悪い面が目立つ。
余談だが、現代のテクノロジーが人々それぞれに最適化された広告を読ませることをいかにうまくやれるかというところにリソースを割いているのは端的に悲しくならないだろうか。私はとても悲しい。それがテクノロジーが真っ先にやることでいいのだろうか。世界一の億万長者がすることなのか。この世には貧困にしろ格差にしろいくらでも優先するべき問題がほかにあると思う。
小説の登場人物がときどき「口をぱくぱくさせて」いることがあるが、現実で口をぱくぱくさせている人を見たことがないので、こういう描写がされたときにうまくイメージができず、代わりに池の水面で口を開いている鯉を思い浮かべている。
本をなにかの役に立つものとして読まないようにしたい。おもしろいから読みたい。なんのために読むのかではなく、それ自体を目的として読む。
目的を果たすための手段として読むと、予期した目的を果たせなかったときにがっかりすることになる。
朝起きるコツをつかんだ。朝起きようと思ったら、起きようとするのでなく、目的を一つ先に作る。「起きたい」と思ったら、「起きよう」ではなく、「水を飲もう」、「トイレに行こう」といった本来の目的(「起きよう」)の行動の一つ先を目的にする。目的を目的の途中の過程に落とし込むことで(目的として)意識しないようにする。
こうして考えてみると、苦手なことはそれ自体を目的にするのではなく、別の目的を遂行する過程に落とし込み、楽しみたいことは、それを達成することで何かを得るための手段とするのではなく、それ自体を目的としたほうが楽しめるだろう。朝起きるのは過程とし、読書は目的的に行うとより気持ちよく過ごせるかもしれない。