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日記 2025/08/23 9月の目標

天気:竈、開 メンタル:まあまあ元気 9月の目標。 「自分に対しても、他人と接するときと同じくらい丁寧に接しよう」

日記 2025/08/19 極北へ

天気:晴れ メンタル:落ち着いている マーセル・セローの『極北』にこんな一節がある。 「まわりのすべてが崩壊してしまったとき、人をまっすぐ立たせておいてくれるのは、決まった習慣だ」(p.43、村上春樹訳、中公文庫) 暗い鬱の霧に覆われた私の二十代を救ってくれたのは間違いなく習慣だった。規則正しい習慣を作っていくことが、私を鬱の長いトンネルから抜け出させてくれた。寝てばかりの私を立たせたのは規則正しい習慣だった。 三十代になって、いざ働くぞと奮い立ったものの、あっけなく失敗した。たしかに、習慣は人を立たせておいてくれるが、歩かせてはくれない。歩く方向を指し示してもくれない。歩くのは自分だ。歩く方向を決めるのも自分だ。あるいは自分の中のなにかだ。私は人並みに働けるようになることそれ自体を目的に頑張ってきたから、いざ復帰できたときに行き詰まってしまった。人生の目的がなくなったからだ。立てるようになることを目的にして立てるようにはなった。だが、その先は…? どこへ行く…? 歩く? でもどうやって…? まったく考えていなかった。そう、立ったならば歩かなくてはならない。だが、私は歩くことはまだできないようだった。そもそもどこへ行けばいいというのか? なぜ歩くことができないのかというと、「いったいなんのために生きるのか」という目的がないからだ。精神のそういうものを司る部分が今は朽ちている、錆びている、そういう感覚がある。ぽっかり穴が空いていて空洞。だから、私は今、欲することを欲している。これはただの欲ではなくて、持続的な「衝動」とでも呼べるようなものだ。一瞬の花火のようなものではなく、こんこんと湧き出る泉のような。 私は静かに息をひそめて待っている。いろいろなことを試しながら待っている。自分の中に衝動が萌すときを待っている。なんでもいい。「これがしてみたい」、「あれをどうしても手に入れたい」、そういった心の中の自分でも手に負えないような深い欲望が目を覚ますのを待っている。